last update 2020年9月5日 12:00

コンテンツの寿命と「何に載せるか」「何を作るか」

このところ、ブログ・まとめなどの「個人制作系テキスト媒体」のサービス終了が相次いでいます。また、アプリ規制により「個人制作コンテンツのネット上での寿命」も意識せざるを得なくなりつつあります。

ということで、今回のテーマは「ネット上にコンテンツを残すことの難しさ」です。

コンテンツを「自分で所有・配信する」という選択

僕は11年以上に渡り、このサイトのコンテンツを「自前で」配信し続けてきました。

サイトを立ち上げた2007~2008年当時、ブログサービスといえば Blogger・WordPress.com・Yahoo!ブログ・Amebaブログ・Livedoorブログ・Vox など、すでに百花繚乱。

そんな中で、僕は敢えて「自分のコンテンツを自分で管理・配信する」という困難な道を選択したわけです。

理由はいくつも挙げられます。

  1. 当初から10年以上の長期運営を想定していた
  2. 「コンテンツを自分の制御下で所有したい」という強い欲求
    (特定サービスに依存したくない)
  3. CMS 乗り換え時でも、コンテンツの体(てい)と検索エンジンの評価を、合理的な努力の範疇で維持したい
  4. 採用したサービスがビジネス的要因で終了するのは嫌だ

そして、これらを実現するため、当時の僕が下した判断はこういったものでした。

  • レンタルサーバーを使わず、自前でサーバーを運用することで、トランザクションの品質を上げ、原価を抑え、コンテンツ寿命と経営寿命とを極力切り離し、最悪、僕1人でも維持できる体制をつくる。
  • 「人気商売」は波があるので避ける。
  • 将来も記事が読めるよう、記事制作に使う HTML タグを絞る。

数十年スパンで見たとき、「最悪、1人でもコンテンツ配信を続ける」というのは、簡単なようで大変難しい話になってきます。

その覚悟を現実的な形にするには、文章・画像をどんな形式でどんなシステムに乗せるのか、どんな方法論で維持するのか、生活との折り合いも含め、山積となった課題の1つ1つに丁寧に答えを出していく必要があるからです。

「コンテンツを個人が配信し続けること」

は、今も昔も変わらず難題のままなのです。

技術の進歩は確実に世界を便利にしましたが、コンテンツのオンライン化により、むしろ、その保全のハードルは高まりつつあります。

それは、「収益に寄与しない過去コンテンツの維持にもコストが掛かる」という構造上の問題、そして、「CGMコンテンツの規格や形式変更、プラットフォームのアップデート・消滅・性能劣化などの変化を乗り越える」という本質的な課題が少なくないからです。

例え話をしましょう。仮に、明日、Twitter が無くなったとして、あるいは、使い物にならないレベルの性能劣化が発生したとして、あなたのソーシャルグラフや過去ツイートを受け入れてくれる先はあるでしょうか。サービス終了時に過去ツイートのデータをダウンロードさせてもらえるとして、果たして、あなたはそのデータをクラウドストレージの肥やしにすることしかできないのではないでしょうか。

現代においてコンシューマが生成したコンテンツは、特定プラットフォームの寿命に縛られているケースがほとんどなのです。

さて、僕は過度の心配性であり、また、極度のサボり性です。ですから、一度書いた記事は、できるだけ手を加えずに将来も読めるようにしたかった。だから、使うHTMLタグを極端に絞ったし、また、下手にスケールしたりレバレッジするよりもサービスの永続性を選び、SNS やブロガー界隈と距離を置き、人気商売に過度に依存しないよう努めてきたのです。

結果、僕が下してきたこれらの判断は、コンテンツを残す、という当初の意思の実現には寄与したようです。

僕にとって1つ幸運だったのは、若い頃、キャリアの寄り道先で国内有数のトラフィックを捌く機会に恵まれ、多少のサーバー管理の技術と技術経営的な感覚を持ち合わせていたことでした。

そんな要因もあり、当サイトでは現在でも、国産インフラを使った自前運用と独自ドメイン、WordPress の自作テーマで、主に検索エンジンを相手にサイト運営する、という体制に落ち着いているわけです。

どのレイヤーでサービスの提供が止まったとしても、僕の目が黒いウチはコンテンツだけは残す、そんな当時の思いが、今でもこのサイトの基礎としてしっかりと支えてくれているわけです。

「流行らない技術」「始まらない技術」

これらは、あっさりとした味付けで言い換えるならば、

「インターネット上では、特に、URLのコントロール権を所有していないコンテンツの寿命は、それが載るサービスの永続性とほぼイコールと言える。」

ということでもあります。

現代におけるコンテンツは、人に見つけられてこそ価値があるのであり、データを所有しているだけでは活きません。

コンテンツへの流入経路はいくつかあります。大きいところで、1つはオーガニック検索、もう1つはSNSからの流入が挙げられるでしょう。

このバランスは難しいところですが、もし、あなたが人気商売をするのであれば、インターネット上におけるコンテンツ・サイト・アカウントなどの地位の保全が、技術的視点だけで達成できるものではない、という側面を忘れてはいけません。

かつて、人気ブロガーを名乗る方が、肩で風を切って歩く時代がありました。

僕は自分を小さく見せる技術に長けており、肩書を好みません。それもあってか、(主に Apple 製品絡みの)その手の集まりに呼ばれては、(参加者の中の誰よりも数字を持っていた僕が)マウントを取られたりなんかもしたわけですが、彼らの多くは姿を消したか、数字を大きく落としました。

当時から「特定技術やトピックに紐付いた人気を、時代を跨いで維持することは困難だろう」と、薄々勘付いてはいましたが、焼け野原と言っても良いくらいに古株が死に絶えた今、その困難さを改めて再認識するわけです。

そうです。私は生き残ってしまったのです。

もちろん、そんな中でも未だに威光が衰えない方はおり、先日もG社の某懇親会で、皆から慕われている様子を遠くから眺めたりなんかもしていたわけですが、残念ながら、G社の担当の興味は、桁違いに多くの数字を持っているサイトオーナーに向いています。

G社の担当が付く最低ラインというのは、人気ブロガー達が誇る、たかだか月間100万PVとかよりも、相当高いところに設定されています。

どんな分野でもそうですが、現実と一般人から見える景色とは大きく乖離しているものです。

知名度は高くないが知る人ぞ知る会社があるように、チャンネル登録者が非公開でありながら多くの視聴者を擁する YouTuber が居るように、WEB界隈にも知名度は無いが大きな数字を持っている個人、あるいは準個人サイト、というものがあります。

そのサイトオーナーは華やかな表舞台に立つことこそ無いものの、したたかに、そして他の分野のトップクラスと遜色ないくらいには稼いでいるわけです。

ただ、彼らの世界も、実際には特定ジャンルに依存しているケースではどうしても波が出てくる。Google 検索のアップデートの影響で一喜一憂する、といった話がないわけではありません。

僕はよく「流行らない技術」「始まらない技術」ということを言うわけですが、少ないリソースで安定して実需を取るなら、「流行らないこと」は長生きの秘訣の1つなのだろうと思っています。

前項の「コスト的に死なない方策」とこの「始まらない技術」。この2つにより、このサイトは生き残るべくして生き残ってしまう運命を歩んでいます。

古株が沈み、新顔が生まれ育つ。そんな新陳代謝の繰り返しを眺めつつ、あと数ヶ月で満12年を迎えるのです。

今後も、世間の流れや人気、経済的事情とは関係なく、僕が生きる限り、たとえ更新が止まったとしても、少なくともこのサイトの既存コンテンツだけは生き残り続けることでしょう。

その座布団は積み重なるか

そんなこんなで、僕は使い捨てでないコンテンツを SNS などのサービスに流すことを好みません。

Twitter も YouTube も Note も Instagram も TikTok も、全てが自分のコンテンツを誰かに預けるサービスであり、その永続性の背景には、常にサービス提供側の「経営的な成功」や「政治的・法的な安定性」が求められます。

多産多死だった CGM 系サービス黎明期とは異なり、寡占化が進んだ現代では、これらのサービスが終了する可能性はかなり低くなりましたが、それでも生粋の心配性ならば、サービスが無くなった後の事は考えておきたい、とは思うわけで。

この手の考えの行き着く先が、結局は、「石碑に文字でも彫っとけよ」みたいな話にはなることは百も承知です。コンテンツが大量消費され流れ去ってゆく、そんな現代とマッチしないことも認識しています。それでも、生きてる間にコンテンツもろともサービスが消滅する事態だけは回避したい、とは今でも強烈に思っているわけで。

多分、似たようなことは、"残すために作っている" デジタルコンテンツの制作者ならある程度気を付けていることとは思いますが、僕はその思いが人一倍強くてですね。

コンテンツが大量消費され流れてゆく世の中だからこそ、その手のメディア・サービスにとって、金を産まない過去データを無料で残しておく意義が問われる未来はいずれ必ずやってきます。

近い将来、データの保管コストが高いメディアから順に、休眠アカウントの扱いや過去データの扱い、また、還元収益の悪化など、さまざまな形で問題が表面化してゆくことでしょう。

コンテンツを残す、ということ

さて、旧来のこういった観点だけでなく、近ごろは更に考慮すべきことが増えてしまいました。

それは、法的・政治的な規制です。

昨今、政治的理由から、特定アプリが制限される可能性が出てきており、世間を賑わしています。

また、これまで、判例の乏しさや法整備の不備により見過ごされてきた誹謗中傷や名誉毀損、名誉感情の侵害行為などが、具体的にその違法性を問われる事例も珍しく無くなりました。

法律の世界には立法事実という考えがあります。自由とは天から与えられた絶対的権利ではなく、社会的なバランスの中で許容される性質のものです。その自由が問題を起こすなら、規制なり取り締まりなりが強化されるのは自然なことです。

ただ、コンテンツを残す、ということは歴史を書き残す、という側面もあり、自由と規制のバランスは難しい問題と言えます。

そして、コンテンツは、時として重い何かを背負うことがあります。恨みだって買うことがある。そして、それでも書き残さなければならない歴史を目撃してしまうことだってあるわけです。

僕はもともと、ノウハウ系の記事を書くつもりでこのサイトを立ち上げましたが、文章を書いて公開するという「事の本質」を何故だか理解しており、当時、嫁さんにこう確認したわけです。

「書いた当時は問題にならなくても、将来、時代が変わって罪に問われる立場になるかもしれない。そのとき、君は支えになってくれるかい?」

と。

当時の政治環境においては、そのような事態は絵空事のように思えたものですが、昨今では、随分と景色が変わってしまいました。

コンテンツをオンライン公開する現代においては、「どんなプラットフォーム向けに作るのか」だけでなく、「どんなコンテンツを作るのか」もその永続性に関わってくるのです。

動画メディアにも自前配信と収益化の選択肢が広がってほしい

現代のコンテンツでは、その内容やデータ形式が特定サービスで公開されることを前提としているケースが珍しくありません。

そういう意味では、インド・米国などによる TikTok 遮断の動きは、コンテンツクリエイターにとってかなり衝撃的なものです。

最終的には時の政治が決定する問題であるとはいえ、特定アプリを国家がまるごと BAN する、というのはなかなか乱暴なことです。そんなことは、よほどの理由が無い限り、避けるべきなのではないか、というのが、僕の考えです。

もし、必要があるとしても、Google やApple 等のプラットフォーマーへ、そのようなアプリの機能を許さないよう働きかけるなど、やり方があるのではないかと思います。

(※その観点から言えば、中国が他国のサービスやアプリを締め出している現状は、改めるべきとの意見も持っているわけですが。)

ということで、以前なら、"記録メディアや再生装置の社会的・物理的な寿命" が主だったコンテンツ寿命問題に、インターネット時代ではコンテンツ維持のための経営的視点が加わり、さらに最近では、政治的・法的な要因までもが入り込んできている、ということで、どんな形でどんなコンテンツを残すのか、は、より難しい問題となってきていると思うのです。

現在、テキスト・画像媒体に関しては、当サイトのような独自配信形態であっても、Google AdSense や Google Ad Manager、さらにオープン指向の Header Bidding などによる収益化が定着しています。

しかし、動画配信に関しては、まだこういった手法は一般的な広がりを見せてはいません。

動画配信では、コデックのライセンスや著作権などの解決すべき課題が多く、さらに配信技術面でのハードルもそこそこ高いため、制作から配信、収益化までを一貫して個人やそれに準ずる体制で行う事はそもそも困難です。

そのため、個人による動画配信は、将来も YouTube や TikTok のようなプラットフォーム依存型のままとなるかもしれません。が、自分の動画を自分が所有しつつ配信できるオープンな形、というのは追求する余地は多分にあると思うのです。

例えば、WEBコンテンツの場合、URLのコントロール権がコンテンツコントロールの1つの拠り所となっているわけですが、それと似たようた形で、動画の世界でも何らかオープン化と収益化の両立ができるようになれば、よりコンテンツは自由になれると思うのです。

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